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Heaven's Cafe

キリシタンのあしあとを求めて・・・♪

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参考文献の整理ができました(^▽^;)

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以前からやらないとなーと思っていたサイトの参考文献ページ更新。やっとやりました。
5年以上前に書いてそのままだったので、それから読んだ本も多く、整理しないと自分でもこんがらがってしまって困っていました。読んだこと忘れてまた借りたり、借りただけでなく、コピーしてから「はっ!」ということもあり。

記憶力の衰えで、印象に残りにくくなっているみたいで。だけど整理したことで、こういう知識足りてないんだと気付くこともありました。自分が関心持っている分野は読んだ本見れば明らかですし。

読んだ本の整理は、自分を振り返る機会になるんだなと~(゚∀゚)


海老沢有道氏の個人誌「ゑぴすとら」

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少し前に知り合った方から頂いた「ゑぴすとら」。興味深すぎて、ページをめくる手が止められません。これはキリスト教史学会創立者の一人、海老沢有道氏の個人誌で、「ゑぴすとら」とは「手紙」の意。1960年から1992年まで発行され(1992年に亡くなっているので、最終号は夫人によって関係者に送付された)、氏の全業績の目録のようになっています。
研究者たちに熱望され、死後全号を集めて編纂されたのがこの一冊。ずっしりと重く厚いので、最初は目次や索引を見て、読みたいところを読んでいたのですが、どれも必要だということが分かって、通しで全部読むことに。緊急だと思う(?)箇所には縦に付箋を貼り、次に気になる箇所には横向きに付箋を貼って、付箋の箇所を二読、三読。すっかり連休を投資してしまいました。
「ゑぴすとら」の構成は、史的小稿がまずあり、次に既刊の著作の補遺・訂正、論評・書評、講演・執筆目録、それと最後に身辺雑記となっています。
海老沢氏と言えば、日本のキリスト教史研究、特にキリシタン研究の大家で、少しは本を読んだことがあるけれど、個人的なこととしては「お父さんが牧師だったかも」くらいしか知りませんでした。だけど毎号末の「身辺雑記」にその辺りが詳細に載っていて興味深いの何のって。
お兄さんも弟さんも牧師、弟さんは日本基督教団の宣教師で海外宣教をしてから帰国して、兄の引退に合わせて教会の牧会を継いでいました。お嬢さんの夫もYMCA主事。
そもそもお父さんが今の日本基督教団江古田教会の創設者で、海老沢氏はこの教会の長老として、新会堂の建設に尽力。バザーで収益がどのくらい上がったかまで「身辺雑記」に書かれています。

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そんな個人史的なことだけでなく、その年の基督教史学会がいつどこで何人で開かれて、どんな内容だったかや、「例年通り三笠宮殿下も参加され・・・」など、さりげなくすごいことが記載されています。ヨーロッパに研修ツアーに行き、ローマ教皇に謁見して感動したとか。これは「身辺雑記」と言いながら、ある意味もう日本のキリスト教史。
史的小稿の内容も、エキュメニカルな立場で、時代や洋の東西を問わず様々なテーマを扱っていて、該博な知識に基づく氏の史観が感じられます。研究書には出てこない信仰な部分が表れているのも、「手紙」の良さかと。
氏自身が生い立ちや、どんなふうに研究をしてきたかを語っているところは感動的でもあり、発奮させられるところもあり。昔の学者たちは、自分で翻訳して研究していたんですね。史料にアクセスするのにも大変な苦労があり、コピー機もないから図書館の開館時間ギリギリまで筆写して。
「先行研究」と、一括りにしてしまいそうになる研究の厚みを、自分が受け継いでいくんだなと感じられて良かったです。
巻末には付録として、氏が病床にありながらも10年間、自宅で7人限定で行っていた海老沢ゼミナール(略称:海老ゼミ)の目録や氏の文章も。その参加者を見ると、清水紘一や太田淑子、岸野久、五野井隆史、村井早苗(順不同。敬称略)ら錚々たるメンバーが。皆海老ゼミだったんですね。
書かれたもの全体を通して、研究者ってこういうものなんだということを学ばせてもらいました。研究って一生をかけてやるものなんですね。これからも時々「ゑぴすとら」から抜粋して、文章を上げようかと思います☆

07/17のツイートまとめ

tenjounoao_yume

期日前投票行って来ました。期日前の方が便利な所で投票できるので良いかも~と。写真はワイヤードカフェ。 https://t.co/tVFz1a5xnP
07-17 17:14

東京神学大学神学会編「新キリスト教組織神学事典」

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ひどく敗北感を味わいながら、東京神学大学神学会編「新キリスト教組織神学事典」読み終えました。この本が出版された時の書評に「本書はいわばコンピレーションアルバム」というオシャレな文言が踊っていて、単純な私はそれに惹かれて手に取ったのですが、読み終えるのに1年くらいかかりました。。
他の本と並行して、気が向いた時にちょこちょこと読んでいたから時間がかかったのですが、これ一本に絞って読み続ける力は到底湧きませんでしたね。やっぱり「事典」は引くものですね(うん、「事典」だもの)。コンピレーションアルバムのように読むには知識と才能が必要なようで、身の程知らずだったことを恥じております。
「愛」とか「悪魔」とかがある「あ行」からの脱出で躓き、「三位一体」や「贖罪」などがある「さ行」で遠い目になり、伏兵のような「は行」で何度挫折したことか。睡魔との戦いでも満身創痍になりました。それでいて「組織神学」の項目も、ちゃんと理解できた気がしないという・・・。
しかしこんな私でもほんの少し残ったことがあります。メモ取りながら読んでいたので、気になる言葉が書き留められているのです。「北森嘉蔵(神の痛みの神学)」「熊野義孝(日本基督教団信仰告白)」「自然神学」「ニーバー」「物語の神学」等々。
次にまた気が向いたら、こういう項目から他の本を探してみてもいいということですね。それから今後分からない言葉が出てきた時には、本書に書いてあることだけは分かっているので、また読めば良いという(あまりに記憶に残っていなくて、きっと愕然とするんだろうな)。
私にはコンピレーションアルバムにはなり得なかったけれど、知りたくなる事柄を見つけるきっかけにはなりました。ふつう自分の興味があることから調べていくので、その方向ばかり掘り進んでいってしまい、関心外の項目にアクセスすることはあまりありませんよね。
だけど「これもある」「あれもある」と広く見渡せる機会を得ることは、発想の豊かさにもつながって有益なんだと思います。特に私のように専ら一人で勉強している者にとっては。
事典を1ページ目から読むという方法は、人にはお勧めできませんが、そういう機会を与えてもらえたのかなと、自分としては感謝していたりします♪

https://www.amazon.co.jp/新キリスト教組織神学事典-東京神学大学神学会/dp/4764241048



竹下節子のブログ「宗教は阿片か?」

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竹下節子さんがブログで「宗教阿片か」を投稿。
以下引用です。

誰だったか失念したけれど、フランスのあるカトリックの聖職者が、

宗教阿片だと言われることがあるが、どう思うか」

と聞かれてこう答えていた。

阿片は、第一に、苦痛を取り除く、第二に、現実から逃避させて別の世界に誘ってくれる。

キリスト教は、イエスの十字架上での苦しみに意味を見出すのだから、阿片の第一の特徴には合わない。そして、別世界どころか、この世の中でより小さい者、飢えた人、病む人、宿のない人、牢獄にいる人などのところに行って仕えよと言っているのだから、第二の特徴にも合わない。

だからキリスト教は阿片ではない」

なんだかあまりにもシンプルかつクリアーだったので感心した。

キリスト教の本来の姿をちゃんととらえている。

仏教の僧ならどうやって答えるんだろう。

=======


いつもながら、この人、カッコイイと思ってしまった。



07/16のツイートまとめ

tenjounoao_yume

年が明けたときは、「わぁ、2019年なんて年になるんだ」と思ったけれど、もう半分が過ぎました。来年の今頃は、「オリンピックってずっと先だと思ってたけど···」と言うんだろうな(^o^;) https://t.co/A58kq4f62j
07-16 16:17

海老沢有道「古河柳生の切支丹集落」

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海老沢有道「えぴすとら」p431より

 

古河発正御所日記』

 

前号に「古河柳生の切支丹集落」の中に『古河発正御所日記』発見について一言したが、その後、古河在住の川島恂二氏から、キリシタン関係記載葉の写真を恵送に与った。氏はかねてから(中略。氏の本の)御恵贈を賜った。それに掲載された、いわゆるマリア観音・クルス墓碑類については、実地踏査を経ていない者として、発言を控えさせて戴く。

 

(中略。題名の言辞について解説に苦しむし、藩主の年代が異なっていることも一旦措くとして、毎日新聞紙上や川島氏が著書に載せているのと実際の文言とは相違があるので次に掲げる)

 

「一、九万石  永井信濃守尚政

・・・・・(中略)」

 

まさに、これほど支離滅裂な文も珍しいというべきであるが、キリシタン関係文章は一応「切支丹下宮村に集め、新田を立て申し候。金堀谷にて九拾五人顕われ、はり付に掛り」と訓むとしても、何とも云えぬ文章と言わざるを得ない。切支丹露見というようには云うものの、「顕」が「金堀谷」の上にあることや、「はり付に掛り」で(はり付に掛け候」または「はり付に掛る」とは決して読めない)、いきなり文意不明の「御はだ小袖云々」となるのである。(中略)その後の江戸の明暦の大火との突飛な記事が、何故そこに記されなければならないのか理解に苦しむ。

(中略)

いずれにしても、こうした支離滅裂な記録は、史料として信憑性を疑わざるを得ない。従って史家として、私はこれによってキリシタン殉教を論ずることは傍証の見出されぬ限り差し控えざるを得ないのである。

197510

 


海老沢有道 キリシタン遺物(2)祭具・信心具 ―キリシタン地方史の研究について(5)―

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海老沢有道「えぴすとら」p417より

 

キリシタン遺物2祭具・信心具

キリシタン地方史の研究について(5)―

 

[祭器]キリシタン典礼のうち、バウチスモ(洗礼)とエウカリスチャ(ミサ)とは2大典礼であるだけに、それに関連する祭具が最も多いのも当然である。が、弾圧のため聖堂は破却されてしまったから、教会の聖壇にあったであろうクルス(十字架)、聖体匣、聖体顕示台、燭台、香炉、あるいは洗礼盤とかは残存していない。迫害下でパアドレらが秘かに信者の潜伏する部落を訪ね、典礼を細々と挙げるために携行用の小品が伝えられているにすぎない。

バウチスモを授けるための聖水盤とおぼしき陶磁の器がクルス茶碗などとともにもてはやされているが、聖水盤と断定するに足るだけの史料は見出されない。同じく聖水容器もそれを証する史料がない。潜伏キリシタンでは普通の茶碗や徳利などが用いられており、特にキリシタン的なものを示すものはない。

 

(中略)

(螺鈿盒子について)いずれも蓋部分にはIHSを貝の光彩で包んだ文様がほどこされている。それを従来多くの人々はイエズス会紋章とし、私もそれを踏襲して紹介してことがあるが、それは誤りで、ギリシャ語によるIesusのはじめ3文字を採ったもので、のちにラテン語でIesus Homunium Salvator(人類の救主イエズス)と解説的に解され、その頭文字を採ったものと説明されている。

 



海老沢有道 キリシタン地方史研究について

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海老沢有道「えぴすとら」p375より

 

キリシタン地方史研究について

 

はじめに:最近の地方史研究は、いわゆるおらが郷土史から脱皮して、歴史を構成する基盤として史学的再吟味が進み、すぐれた業績を挙げつつある。(中略)それが高く評価されるにつれて、多くの牽強付会がなされる危険性を孕んでいると認めざるを得ない。また遺物と称する偽物が横行し、人々を迷わせている場合も少なくない。




松田重雄「切支丹灯籠」評

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海老沢有道「えぴすとら」p203より

 

松田重雄「切支丹灯籠」評

 

鳥取民俗美術館長松田重雄氏が、永年のキリシタン燈籠の研究を公けにするから、推薦して欲しい旨、昨秋同地の永田牧師から再三の御依頼を受けた。そして執筆意図と目次、その要点等を拝見したが、学問的に極めて不安なものがあるので強く御辞退し、刊行の暁には批評させて戴く旨お答えして置いた。それが、このたび愈々出版されたのであるが、一言にして云えばキリシタン研究が半世紀も逆行した観(ママ)がある。


全くひどい本が公刊されたものである。各項誤謬・曲解・こじつけにみちみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほどを執筆せねばならない。ただ全国各地に散在する、いわゆるキリシタン燈籠を調査し、形態的整理をしたという点にとりえがある。


また問題の謎の文字をPatri(父に)と解する新説を出している。が、参考文献が巻末に若干掲げられているものの、従来の学的研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタン教理・信仰についても理解を欠いており、とに角恐れ入った著述である。

こうした書を(中略。個人名)が提灯もちをされているのは誠に遺憾の極みである。

 

 


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Author:由愛(ゆめ)
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