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生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く。死に死に死に死んで死の終わりに冥し。。。

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高野山の奥ノ院までの道は幽玄の世界。中世から現代まで数多の人々の墓が建ち並び、しの降る雨の中歩いていると、死者との対話さえ可能に思えてきます。明智光秀、石田三成、織田信長・・・現世で戦った人たちが、死んでここに集まっているなんて。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く。死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し――。
空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』にある序詩が脳裏でリフレインします。「暗い」「冥(くら)い」って一体どういうことだろう?
「暗い」は、その分野に詳しくない、知識に明るくないということでしょうね。「冥(くら)い」は、冥界のような暗闇の世界のことか?
どちらも人生を覆う、分からなさ、根源的な不可知性を言っているように感じます。

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修行するなら、ここで諸行無常を痛感して世を離れ、輪廻を超えるべく解脱の道を目指すというのが正解なんでしょうけれど、今はただこの無常さをひしひしと感じながら漂っていたいという気持ちがします。
キリスト教的でも仏教的でもないですが(指向性としてたぶん両方から×もらうでしょうね汗)。
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少々面倒くさいことを付け加えるなら(ご安心ください、今日は空海クリスチャン説・景教徒説への反論ではありません☆)
空海の著わした『即身成仏義』では、この身のまま現世に於いて成仏できると証していて、その通りに自らが入定したのだから、既に成仏したことになり、そうであれば、後に誰かが現れて救ってくれることを待つ必要はないわけです。

しかし大師に関する伝承は時が経つにつれて変貌し、10世紀頃からは大師が兜率天から弥勒如来と共に下生してくる、あるいは、今即身仏でおられるのは、弥勒下生を待ってのことだというような考え方が編入されてきたようです(渡辺照宏・宮坂宥勝『沙門空海』より)。
即身成仏しているのだから、未来(菩薩から如来になった後)に弥勒如来の龍華三会で見仏聞法し、そうすることで成仏するなんてこと不要です。身口意の三業を三密ならしめることで大日如来と同化しているのに、他の誰を必要とするのでしょうか(←これ密教のキホン)。

空海の理論は精緻で、自らの入定でもって完成した即身成仏という考え方は、これ以上他のものを要しません。そこに弥勒の下生を待つだなんて思想を採り入れたら、密教の理論が本末転倒になってしまうのです。だから空海が弥勒下生を待ち望む遺言をしたというのは、後世の作り話ですね。

どうもその辺が10世紀の時点でもう混乱していたようなんですが、これは単なる混乱ではなく、当時を末法の世と捉え、意図的に編入した思想だったかもしれないと、個人的には考えています。「希望」としての採用、ではないかと。

天変地異や疫病、戦乱の多かった時代、明日をも知れぬ閉塞感ある人生を過ごす人々は、いつか誰かが来て救ってくれるという願いを持ったとしても不思議はありません。そのマインドが宗教の方に影響して、「希望」を与える教理を採り入れたと考えることはできないでしょうか。

宗教の教えが人々に影響を及ぼしたという一方通行ではなくて、人々の願いもまた宗教に影響し、願いを反映した「希望」を取り込みながら、末世信仰として信心を集めた可能性があると思うのです。

詳しくは、密教や宗教史の専門家にお任せすることですけどね。ただ、仏教とその時代の人々との関係から解けること(部分だとしても)があるのに、殊更にキリスト教と結び付けなくてもという・・・あ、いつもの話になりそうですね。やめとこっと💧
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だけれど、
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く。死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。
は、宗派教派を超えて、もっと言うなら宗教でもなくても、響く言葉だなと思います。

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