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高野山の生身供から、空海クリスチャン説まで。トンデモは叩かないと無くならない。

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(3月中旬の旅行のつづき)京都を発って、和歌山県の高野山へ。朝早く出たのは、奥の院で行われる生身供(しょうじんぐ)を見たかったから。

生身供とは、入定(にゅうじょう)している弘法大師空海に食事を運ぶもの。入定は、死んで涅槃に入る入滅とは違い、生きていると考えるので、一日に2回食事を持っていくのです。


メニューはすべて精進料理だけれど、和食とは限らないそうで、チンジャオロースやスパゲッティが供されることもあるとか@@ 飽きがこなくていいですね?w

私が見たのは午前10時半の儀。御廟橋の手前にある嘗試(あじみ)地蔵の前で、お膳の毒味をした後、短い出発の儀が行われます。御廟橋から先は撮影不可なので、ここからは見守るのみ。


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食事の入った木箱は燈籠堂へと運ばれ、肖像画が飾られている前に置かれると、読経(1時間程度)が始まります。併せて各種祈祷も行うので、祈祷をお願いした人たちは燈籠堂に上がってお参りすることができます。


木箱を運んだり、御廟内に入って空海に食事のお世話をする(とされる)のは「維那(ゆいなorゆな)」と呼ばれる「仕侍(しじ)僧」のみ。維那は御廟内の大師の姿を知る唯一の人物ですが、御廟内の様子や大師の姿を口外することは禁止されています。


燈籠堂を背後に回った所にあるのが空海がいる御廟。ここに来たのは三度目だけど、今回ほど人が少ないことはありませんでした。私一人の時間もあり、空海と一対一になったような気分。雨音と読経をバックに、半時間余りも思いをめぐらせていました。

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ここからは空海クリスチャン説の話なので、興味ない方はスルーしてください。(自分で言うのも何ですが、面倒くさい話ですよ~)


久保有政、ケン・ジョセフ著『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』には、「空海は灌頂を受けて、『遍照金剛』という灌頂名を授かりました。『遍照』とは、“広く照らす”の意味で、これは景教徒の訳した漢訳聖書・・・(中略)から取ったものでしょう。」と書かれています。


これでは、灌頂名を与えた恵果和尚まで景教徒ということになってしまいますね。宗教では光に関する名称を付けることが多く、それを即キリスト教とするのは飛躍です。

「さらに、灌頂式に使う祭壇の装飾具において天蓋の裏に太い十字架があり、玉旛(ぎょくはん)の上にも十字架があります。」と書かれています。


が、実物を見ましたが、天蓋の上部の木が布を張るために交差しているだけです。それを十字架だなんて・・・(これをこじつけだと言ったら叱られますかね?「そうかもしれないじゃないか!」と、よく叱られるんです)。


この論理だと、本棚でも箱でも建物でも、過去から現在までのほとんど全ての構築物がキリスト教のものということになってしまいます。

また、本書には以下のようにも書かれています。(ここからが今回言いたいこと)


「空海は、死に就こうとするとき、弟子たちに次のように語りました。『悲嘆してはいけない。私は・・・弥勒菩薩のそばに侍するために、入定する(死ぬ)が、五六億七千万年ののち、弥勒と共に再び地上に現れるであろう』
将来人々を救いに来るという『弥勒』の来臨のときに、自分もまた復活するというこの信仰は、まさに、“キリストが再来するときにクリスチャンは復活する”という基督教信仰と同様のものです。」(ママ)


えー、反論いたします。まず、「入定」は「入滅」ではないから「死んで」ないですね。今もご飯食べているという考え方をして、「生身供」(生きている身に食事を捧げる)儀を1000年以上も続けているのです。


もちろん私とて、今も空海が生存していてスパゲッティを食べているとは思っていません。考え方としてそうだということです。


ではなぜ本書では「死んだ」ことにしているかを考えてみると、恐らく「復活する」には先に死んでないといけないからでしょうね。空海が生きてては辻褄が合わなくなるから、「死ぬ」場面を描き、弟子たちに再臨時における「復活」を約したというストーリーに仕上げているわけです。


ここまででも立派なすり替えですが、「弥勒の来臨」を「キリストの再来」と同一視しているのも意図的なすり替えでしょう。

イエス・キリストは実在の人物で、終わりの時に再臨するとされています。弥勒菩薩は人として生きたことなく、これから初めて来る存在です。


したがってそれぞれを信じる信仰も異なります。例えばクリスチャンはイエス・キリストを「救い主」として信じるので、その方が再び来るのを待つのですが、弥勒菩薩は現時点では「救い主」に相当する位階にありません。


弥勒は釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、位階としては「菩薩」です。「菩薩」は修行者(56億7千万年後に現われ悟りを開く予定)ですから、イエス・キリストのように「救い主」とは言えません。この位階の違いを無視することはできないはずです。


大体、イエス・キリストを「救い主」として信じなければ、キリスト教でも何でもありません。誰か他の存在を「救い主」として信じてもキリスト教でないのに、現在まで「救い主」であったこともない存在を信じたとて、それがキリスト教とどんな関係があるというのでしょうか。


つまり未来に来て救ってくれるという点は類似するものの、その他の相違は無視できず、同じとは考えられないということです(細かく見ていくと、これ以外にも多くの違いがあります)。


一言で言うと、空海はキリスト教徒ではない!ということですね。至極当然なことを言っているだけなんですが、こんなにおかしな話が今拡散されつつあります。

トンデモ説って、ちょっとインテリな人が陥りやすいそうです。ちょっとでなく、がっつり空海の傍で仕えている「維那」さんたちが怒ってくれるといいんですけど。


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