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蚕の社と広隆寺、弥勒菩薩半跏像

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京都では「いさら井」に続いて、蚕の社へ。蚕ノ社は通称で、正式名称は木嶋坐天照御魂(このしまにます あまてるみたま)神社と言います。太秦にある秦氏ゆかりの社で、三柱鳥居があります。境内入ってすぐの由緒書に三柱鳥居のことが書かれ、

「全国唯一の鳥居である 鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿ご本尊の神座であり・・・(中略)一説には景教(キリスト教の一派ネストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている」(ママ)とあります。

景教の説明も間違っていますが、問題なのは、景教の遺物だと神社の由緒書に書かれることで、半ば公式見解のようになっている点ですね。これは100年ほど前に佐伯好郎が唱え始めた日ユ同祖論に基づく見解で、この考え方を受け継ぐ人は今もいます。

日ユ同祖論や秦氏景教徒説の代表格として挙げられるのは牧師で、支持するする人にも牧師やクリスチャンが多くいます。そのためキリスト教界にも影響を及ぼしているという現状があります。

だけど、三柱鳥居だから三位一体の神を表すキリスト教だと断定するのは根拠が薄すぎます。この下にある池の水で洗礼を施したのではないかというのは、そういった事実が一切確認されてもいないのに主張されている想像に過ぎません。

蚕ノ社の次は広隆寺へ。太秦にある「いさら井」、三柱鳥居、広隆寺は、その手の人たちには、秦氏景教徒説を裏付ける三点セットのように語られています。

広隆寺は、秦河勝が聖徳太子から贈られた仏像を本尊として建立した山城国最古の寺。国宝第1号指定の弥勒菩薩半跏像で知られていますが、この弥勒菩薩半跏像の印相がキリスト教の図像と同じだから、キリスト教の聖像であるという人がいます。

また弥勒菩薩という未来仏の思想は、メシア思想から生まれたと考える人もいます。仏像自体、ヘレニズム文化との出合いで生まれたと考えられているので、西洋と東洋の邂逅で多くの文物が生まれ、影響し合ってきたことは事実ですが、それを「キリスト教」と言うかは別問題です。

仏教における弥勒思想とメシア思想とには大きな違いもあり、同一ではありません。印相についても、同じだったり似ていたりするものは多くあり、同時代の朝鮮半島にも存在します。
同じ印相でも、顔に近づけているのが仏教で、近づけていないのがキリスト教だと言う人もいますが、仏像の中にも顔に近づけていないものが多くあります。

つまりデザインは東西で似ることがあっても、内容まで同一ではないし、それをもって「キリスト教だ」と言うことは不可能だということです。

太秦(うずまさ)を、イエス・キリストを意味する「イシュ・マシャ」から来ているとした佐伯好郎や手島郁郎の説を信じていた牧師(両親がカナダ長老会宣教師だったため朝鮮で生まれた)は著書で、佐伯・手島両氏の本を引用しながら「広隆寺はキリスト教の寺院で、『イエスはメシヤ』であるという称号を持っていた」「(広隆寺で)救い主イエスが証されているのは驚くべきことである」と述べています。

また同じ著書では、根拠を示すことなく、「ハングルは約千年前にキリスト教宣教師によって考案」されたと書いています。この方は日本宣教にも携わり、神学校でも教えていたので、この方の本を読んでそうだと思っている牧師さんに会ったりしますね。信徒はふつう牧師先生を尊敬するので、ご自分で思うより影響力が大きいことを肝に銘じてほしいです。

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弥勒菩薩半跏像(通称:宝冠弥勒)ばかりが注目されがちな広隆寺ですが、新霊宝館には他にも見応えある国宝・重文の像があります。同じく弥勒菩薩半跏像ですが、通称「泣き弥勒」の菩薩像も国宝。平安時代初期に作られた不空羂索観音立像と木造千手観音立像、木造阿弥陀如来坐像(いずれも国宝)は大きくて圧倒されます。

重文の地蔵菩薩坐像や木造千手観音坐像、虚空蔵菩薩坐像もいいんですが、やっぱり印象に残るのは宝冠弥勒ですかね。隣には、秦河勝夫妻の像もありました(ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝を禁止しているので、この像があることだけからも、秦河勝がユダヤ人キリスト教徒だったとは考えられません)。

個人的には千手観音立像も良かったです。写真を載せられなくてすみませんが。。秦氏景教徒説がチラついて、このような宗教芸術の世界を味わえなかったらもったいないですね(←私だ;;)。

だけれど、間違った目(観)で見て「広隆寺はキリスト教の寺だ。すごい!」と言っていた牧師、その影響を受けて同様に考える人たちを、これ以上増やすべきではないと思います。
そこに本来込められてきた仏教思想が無視されるのもおかしな話です。千年以上も前から信心を集めてきたこれらの像の意義を、何でもキリスト教に結びつけるトンデモで歪めてしまっていいはずがありません。

何かが「似てる」「自分には○○に見える」「言葉が似てる」からと言って、何でもかんでもキリスト教にしてしまって・・・それがクリスチャンのロマンでしょうか。今もこういった説を唱える(あるいはそうかもしれないと一定の支持を表明する)牧師先生方に再考をお願いしたいです。


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