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キリシタンのあしあとを求めて・・・♪

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旅行を終えて、特に大分に関して気になったことを・・・

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旅行を終えて、大分でいくつかのことが気になりました。備忘録を兼ねてちょっと書いておきますね。

・十字形の発掘品:下の写真の発掘品は、埋蔵文化財センターの常設展にあったのものですが、見事に十字形。

これが近世の地層から出土していたら、「キリシタン遺物だ!」と言い出す人がいるかと思いますが、これは今から3800年ほど前の縄文時代の物。十字形の石器は、手のひらサイズの物と小さい物と二つ展示されていましたが、恐らく何かの用途に用いられた道具でしょう。信仰具ではありません。

このように年代があまりに古い地層から発見されていたら勘違いされることもありませんが、古墳時代以降の地層からだと、「原始キリスト教が伝わっていたからだ!」「景教が伝来していた証拠だ!」という人が必ずと言っていいほど現れます。

十字形のようなとても単純な形の物が発見されただけで、即キリスト教の物だと判断してしまう発想はやめた方がいいですよね。

竹田の「切支丹籠屋敷」:先哲史料館の方で展示されていたのが、宝永6(1709)年の竹田市の古地図「竹田火事之図」。ここに「切支丹籠屋敷」の文字が見えます。キリシタンを捕縛して収容していた牢屋があったということですね。

竹田は今でこそ「ミステリアス!竹田キリシタン」として「隠れキリシタン」ならぬ「隠しキリシタン」の可能性を示唆していますが、史実を追ってみると首を傾げざるを得ません。

まずキリシタンであるが故に処刑された者が確認できるだけで95人ほどいて、この人数は、全国的にはもちろん、殉教地の多くある九州でも多い方に入ります。

元和の大殉教など「大殉教」と呼ばれるのが一度に50人規模の処刑ですから、時期的にばらけたとしても大殉教地の一つと数えるのが妥当です。

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この点に関しては、竹田「隠しキリシタン」説を推す人は明暦年間から安永年間までの百年余りの間、岡藩内で処刑されたキリシタンは95名とされています。年間1名居るか居ないかです。これは九州の他藩に比べ異常に少なく、藩主である中川家が幕府に対し取ったギリギリの処刑数ではないかと云われてます。(処刑無しでは信徒数の多かった地域としては不自然で却って怪しまれる)。」とおっしゃるのですが、安永年間まで処刑が行われていたとしたらそれだけでも大変なことで、95人は「異常に少ない」なんてことは全然ありません(岡藩は小藩ですし)。怪しまれるから年1人ほど処刑していたなんて話、ほかで聞いたことないですし。「隠しキリシタン」説の人は皆さん同様にこの説明をなさいますね。

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また牢屋で拷問が行われたかどうかは不明ですが、切支丹牢は棄教しなければ死ぬまで入れられているのが通常で、これだけ殉教があった地域だと牢内で死亡した者も1人2人ではないだろうと考えられます。

つまり、処刑された者だけでも多いのに、牢死した者まで併せると相当な数に上ると想像され、全国でも指折りの殉教地となるわけですね。

これは、「藩主や家老たちが入信していた可能性があり、宣教師を匿い、禁教下でキリスト教徒を保護していた(かもしれない)」という「隠しキリシタン説」と矛盾するように思われます。

そもそも「隠しキリシタン」は観光用のイメージだから目くじらを立てることはないという考え方もできなくないですが、そのイメージがメディアに取材されることで人口に膾炙しつつあり、カトリックのクリスチャンまでが「竹田はロマンティックで素敵だ」と感化されているのを見かけます。

キリシタンが捕縛され、殺されていたという事実があるのに、殉教地があることすら知らず、洞窟礼拝堂の神秘的な雰囲気やキリシタンが匿われていた里(「隠しキリシタン説」によれば)という美しいイメージだけが先行して、それでいいのだろうかという・・・。

だけれど、この古地図が竹田市立歴史資料館から貸し出されているということは、史実をちゃんと見ようとする学芸員の方が竹田にも大分にもいらっしゃるということなのでしょうね。今後是非その方々に頑張っていただけたらと期待しています。

・大友宗麟はキリシタン大名?:宗麟公まつりで皆さんふつうに大友宗麟のことを「キリシタン大名」と言い切ってらっしゃったんですけど、厳密に言うと、大名やめてからキリシタンになっているので、「大名」と「キリシタン」が両立した時期は無いですよね。

宗麟は、藩主であるうちは家臣たちの反発を恐れて洗礼を受けることができませんでした。私より遥かに宗麟に詳しい方々ばかりなので、たぶん煩雑さを避けるためとりあえず「キリシタン大名」と言われていたんでしょうね。

・ザビエルを招いた?:ついでに言うと、顕彰フォーラムの方々が、宗麟が「ザビエルを府内に招いた」とおっしゃっていましたが、それも厳密に言うとクエスチョンマークですね。1551年8月にザビエルが来たのはポルトガル船が豊後に着いたと聞き、ポルトガルからの便りがないか、また乗組員から何か得られる情報はないかと思ってのことでした。

その際に、以前からザビエルのことを聞いていた宗麟が、せっかくだから是非館に来てくださいと招き、歓待したということは事実ですが(フロイス「日本史」6巻P58~60)。ちなみに府内への滞在期間は約 2 ヶ月。まだ両国の言葉に堪能な通訳がいなかったので、深い対話ができたかはわかりませんが、大きな影響を受けたのは確かだろうと思います。

これも歌詞などでは文字数が多くなっては煩雑だから、それを避けるために問題のない範囲で省略した表現なのだと思いますが、頭の中での認識は正しくしておく必要がありそうです。

・竹中重義を忘れてない?:それからもう一つついでに言いますと、宗麟を南蛮文化を栄えさせた英明な藩主とフィーチャーするなら、第二代府内藩主竹中重義が長崎でキリシタンを穴吊りにし、雲仙で地獄責めをした人物であることも記憶に留めてほしいですね。

お祭で知らせるようなことではないけれど、「大分のキリスト教史」と銘打つ企画展であれば、一言くらいは触れてもいい気がしました。以上です☆彡


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