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「日本組合基督教会の制度的・思想的『源流』をさぐる」

前回の横浜プロテスタント史研究会(通称:横プロ)は、坂井悠佳氏が「日本組合基督教会の制度的・思想的『源流』をさぐる」を発表。

話についていくのがやっとでした(いつもです;;)が、今回は特に自分で調べたことのない分野だったので、「ここで学ばなければ、自分では一生勉強しないかもしれない」と思って(で、いいのか?)集中して聞きました。

組合教会とは、主に同志社を中心とした会衆派のことで、横プロの開かれている指路教会は長老派なので、「敢えてここで?」という感じですが、発表者の研究のテーマなんでしょうね。

日本に明治期にもたらされたプロテスタント教派は、会衆派(組合教会)、長老派、メソジストの大きく三つといわれています。このうち組合教会は、米国ミッションとの関係を切って日本的キリスト教を志向したので、ナショナリズムと親和性が高いとされています。

しかし宣教師が来て伝えたことがベースになったことは確かなので、どのようなキリスト教が伝えられたのかが大切です。宣教師が伝えたキリスト教とは一体どんなものだったのか、それを探るために、宣教師たちの神学思想の背景を振り返ってみると、19世紀前半にアメリカで広く受け入れられたニューイングランド神学(ニュースクール)が浮かび上がってきます。

ニューイングランド神学は、伝統的なキリスト教から解放された個人の信仰復興を要諦とするもので、神を「道徳的統治者」、人間をその「執行者」と位置付けます。罪については「正しいことをしようとする意志はあるが出来ない」ことだと定義。

そのため原罪という言葉は使われなくなり、道徳から外れることが罪であるという捉え方をします。では救済をどう理解するのか? 悔い改めと信仰による救済が説かれます。

(・・・この考え方はちょっとびっくりですね。ニューイングランド神学を受容すると、イエス・キリストの十字架の意味も違ってくることになります)

さてアメリカでは19世紀前半リバイバルが起こっていたのですが、ニューイングランド神学をめぐって各教派の中に対立・分裂が引き起こされました。長老派は分裂し、会衆派はニューイングランド神学を受容。それが19世紀後半になって、日本に入ってきたのです。

だから教会合同運動も挫折するしかありません。アメリカン・ボード(組合教会の母体となった超教派の宣教団体)の宣教師の大半はニューイングランド神学の教育を受けていました。

例を挙げるなら、新島襄の師匠E.A.パーク(ニューイングランド神学の代表的神学者、アンドーバー神学校で教鞭をとる)は「人間の罪の本質は、人間が悪を選択し、善を選択できないという意志的な選択における道徳行為にある」と言っていて、新島襄の説教にはその影響が強く見受けられます。

近代日本においてキリスト教は、組合教会の場合、道徳宗教として受容されたということが分かります。そこから生活倫理の改善がキリスト教的活動として展開されていくことになり、その模範的生活が「敬虔な」キリスト教徒というイメージを生み出しました。

しかし日本において、ニューイングランド神学のいう「道徳」の意味が狭められ、生活上のこととなったのが問題です。安息日を守り、禁酒・禁煙を励行し、生活規範に悖る信徒が除名されることまで起こりました。

(よく日本のキリスト教徒は贖罪意識が強いと言われますが、こういうことを聞いていたら贖罪が何か分からなくなりますよね。日本人がキリスト教を受容する時に変質させてしまったとか言われたりしますが、それが正しい話なのか。蒔かれた土壌云々の前に、種がどういうものだったのか知る必要があるし、もし変容したんだとしても、何が伝えられたかが正確に分からないと、変容過程も理解できないのだと、聞いていて思いました)

その後、キリスト教の道徳宗教としての歩みが国家に結びつくことで新たな転換点を迎えます。19世紀末、国粋主義が台頭してくる中で、キリスト教と国粋主義は矛盾しないと主張し始められました。道徳宗教としてのキリスト教は、道徳的統治をする天皇制国家に協力するものだという考えが広がったのです。

同志社では日清戦争中アメリカン・ボードからの資金を得られなくなり、学生も集まらなくなったため、校是から「キリスト教主義を掲げ」という文言を削り、教育勅語を受け入れました。

こういったことは、キリスト教を道徳に特化したことによる必然的帰結ではないかと発表者は述べていました。そんな情勢の中でも柏木義円は、国家による宗教利用を批判していて、そういう人もいたことはいたのですが。

発表を聞いて私の脳裏に浮かんだのは、今の日本との類似性です。神の支配を道徳統治とした神学の「道徳」の部分を、人間的な理解で狭めて適用していった結果、国家とキリスト教が結びつき、天皇制国家に協力した過去があったわけですが、それと似たようなことが今の日本でも一部で起こっていないかなと感じるのです。

神学がしっかりしてないと、教会が骨抜きにされてしまうということですね。またキリスト教史学も目を覚ましていないとダメだという。神学者さんたちに頑張ってもらいたいです(自分もしっかりしてないとですね、ハイ)

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終わってからは、夏休み前ラストだということで懇親会。隣の席の男性が「最近、『正ちゃんへ』というメールをもらって・・・」と話していたので、どこの正ちゃんだろうと思っていたら、キリスト教史学会の理事をされていた原島正先生でした。研究者の顔って、あまり知らないものですよね...^_^;

まだまだ何かやらかしそうですが、少しずつ会には馴染んできました。他の参加者さんたちのように、私も極めていけるものがあるといいなと思う今日この頃です☆



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