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古代オリエント博物館「パレスチナにおけるビザンツ時代、十字軍時代の教会堂遺構」

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古代オリエント博物館のナイト講座「パレスチナにおけるビザンツ時代、十字軍時代の教会堂遺構」ですが、そもそも現在修復されている生誕教会のモザイクが十字軍時代のものだったことが話題の発端です。

この教会の床はビザンツ時代のモザイクで、その教会堂が一旦破壊された後、十字軍時代に再建され、そこにモザイク画が加えられたのですが、それらが漆喰で覆われていたため現代に伝えられました。

つまりビザンツ、十字軍、近代の各時代に重層的に教会堂が建てられてきたということで、これを研究することでこの地に起こってきた歴史を俯瞰して見ることができるわけですね。

昨日はその歴史の、十字軍時代までを振り返ったのですが、今日はその続きです。十字軍というと戦ってばかりいたかと考えがちですが、そうではなく、最初の10年は戦っていましたが、それ以降は落ち着いた生活が営まれ、サラディンがやって来るまでの約150年間はキリスト教が栄えました。

十字軍時代の遺構は、今見つかっているだけでも100ヶ所以上。周りには農業集落も築かれ、安定した時代だったことがうかがえます。

そんな状態がまた脅かせられるようになったのは、サラディンのアイユーブ朝の時からで、次のマムルーク朝の時、1291年に十字軍は追放されました。

そして積極的なイスラム化が進められ、続くオスマン朝のスレイマン帝の時に城壁が築かれるようになりました。そうしてその後、栄華を極めたオスマン朝にも衰退する日がやってきて、19世紀になるとヨーロッパの言いなりに。

キリスト教徒やユダヤ教徒が自由に活動できるようになり、彼らの人口は増加。一時はイスラム教徒よりも多くなりました。1830年以降のこのような状態をカピチュレーションと呼びます。

1917〜1948年のイギリス委任統治領時代には、かつてないほどの教会建設のラッシュとなり、これがパレスチナにおける教会堂建設の第三の復興期となりました。しかし1948年からは、イスラエル国とパレスチナ自治区時代となり、今は新しく教会堂を建てることができません。

イスラエルはシオニズムの国であり、パレスチナにはクリスチャンもいますが、ガザなどはハマスが支配しているため、キリスト教には厳しい時代だと言わざるを得ません。

シオニズムとパレスチナ自治区という二重の抑圧の中にいるということですね。

最後の15分で杉本智俊氏が話していたのは、現在発掘に携わっているブルジュ・ベイティン遺跡について。この遺跡、聖書に出てくる「ベテル」の町と考えられるのだそう。この名前を教会名に付けている所、結構あるんじゃないでしょうか。私は今も「ベテル」という名で存在していると思っていました(^_^;)チガウンデスネ

ベイティン遺跡から出てきたのはビザンツ時代の教会堂と、十字軍時代の農業集落と教会堂。ビザンツ時代の巡礼者がベテルで、「ヤコブの石」のある教会を訪問したと記録しているのですが、発掘された教会堂のアプスに石が集めて置かれていたため、これが「ヤコブの石」であり、それを記念する教会堂だと同定されたのです。

ベテルの町は、聖書でアブラハムが祭壇を築いた場所で、ヤコブが天使が梯子を上り下りしているのを見た所で、悪い話では「金の子牛」を祀る高き所が築かれた地ですよね。

ヤコブの事績を記念してビザンツ時代に教会堂が建てられ、一旦は壊されたものの、十字軍時代に蘇り、再び破壊されて(あるいは破壊される前に漆喰で塗り固められて)、そのおかげで現代に蘇ったというのは、実に驚くべきこと。

考古的発掘によって、聖書に描かれた世界が再び日の目を見るようになり、写真で見ることができるなんて、この時代に生まれた恩恵ですね。

またちょっと行きたい所が増えました。イスラエルもエルサレムも行ったことがなくて。いい意味で、「遠い目」になる講演でした(*^^*)


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