FC2ブログ

Heaven's Cafe

キリシタンのあしあとを求めて・・・♪

Entries

「天正遣欧使節とフェリペ2世」の座談会

20181208_170820045.jpg

シンポジウム「天正遣欧使節とフェリペ2世」の第三部は、川村信三教授、レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会日本管区長)と、天正遣欧使節顕彰会の代表理事上杉宗聖(むねあき)氏の座談会。休憩中から大きな声と笑い声を響かせて存在感を示していた上杉氏は、宮崎県に伊東マンショの像を建てた上杉光弘氏(前の自治大臣)の息子。

 

自身も政治家なのか、口調は完全に昭和の政治家。登壇者の中でひときわ異質な空気を放ちながらも大声で場を制し、川村教授をイジり(やめてー;;)、口からポンポンと「ニッポン国民」「国体を維持し」「アジアの中で侵略されなかったのは日本とタイだけ」といった言葉が飛び出すので、ここがキリシタンのシンポジウムなのか、政治集会なのか分からなくなりました。

 

しかしこの方々を中心とした一行で、今年の9月にローマ教皇に謁見してきたんですよね(関連記事:https://www.jiji.com/jc/p?id=20180912222750-0028255571)。この時に教皇の口から出たのが来年日本を訪問したいとの意向。

教皇来日に関する報道では、11月に河野外相がバチカンを訪れて外相と会談をし、教皇来日のために緊密に協力し、準備を進めていくことを確認したというニュースが大きく報道されていましたが、それに先立つこの謁見がもっと重要な意味を持っていたことを知りました。

 

またその時に述べた教皇の言葉からは、日本の経済力やテクノロジーによって世界の諸問題が解決されることを願っていることがうかがえました。つまり教皇来日というビッグイベントは、信仰的な励ましなど宗教的なことに留まらず、政治的・経済的要素が密接に関わっているということです。

 

これはきっと天正遣欧使節の時も同様だったのでしょうね。彼らが外交使節として政治的な一翼を担い、日本への関心を引いて寄付が集まるようにするというのも派遣目的の一つだったのですから。

 

こういう政治的・経済的要素を勘案しながら、様々な意図で結成された団体と連携し、教皇来日への働きかけを行ってきた川村教授、レンゾ神父の見識の広さは、400数十年前の宣教師たちを思い起こさせます。

 

さて座談会なので、司会を務める川村教授が話を振りながら進行するのですが、その内容の一部を紹介しますと、まず座談会に先立って上杉氏が会場から一人の人物を呼び出しました。中浦ジュリアンの子孫(ジュリアンは神父で子孫はいないので家系図上の子孫)である小佐々学氏(東大で教鞭を取っていた獣医学博士)で、自身とジュリアンの関係を述べ短く挨拶をしておられました。

 

座談会に入り、上杉氏が、伊東マンショは日本の創世神話がある宮崎県という、いわば日本のギリシャで生まれ育ったのだと話すと、そこで川村教授が「ケンカを売るようですが・・・」と口をはさみ、「当時の修道院長ペドロ・ラモンがマンショは大友宗麟の直系の孫ではないと書いていますね」と鋭いつっこみを。それに対して上杉氏は「直系ですよ!」と一蹴(しかし根拠は述べず)。

 

「そんな疑いをもたれることを小佐々氏も怒ってる」と上杉氏が言ったので、話を受けてレンゾ神父が「今回の謁見でマンショとマルチノも福者にしてほしいとお願いしました」と話していました(ジュリアンは2008年に既に列福されている)。このような少々(少々ではない?)ちぐはぐなやり取りが見られ、不協和音や険悪な雰囲気はありませんでしたが、志向するところが違うことが明確に感じ取れました。

 

しかしレンゾ神父は、どんなにちぐはぐなやり取りになろうとも、言わんとするところをしっかり表明しようと考えておられたのか、脱線しがちな話題を何度も天正遣欧使節とその意味の話に戻しながら、大体以下のようなことを話しておられました(私のメモからまとめたものなので正確さを欠くことをご承知ください)。

 

「この時代、日本で福音宣教の方法が変わったことが重要。天正遣欧使節は、外交史としてプロトコルがあってちゃんと行われたから、それまではなかった、征服しない福音宣教へと転換するようになった。キリシタンと言えば迫害というイメージがあるが、その前に平和的に高め合うことがあった。(スペインで天正遣欧使節が突然楽器演奏を願われ、マンショとミゲルが即興でパイプオルガンを演奏したことがあったが、)天正遣欧使節の前にもマンショの従兄弟が信長の前でオルガン弾いている。このように文化的交流がうまくできた時代があったのだということを忘れてはいけない。天正遣欧使節は時代を作った人たちだと言うことができる。当時まではなかった福音宣教、国との出合いがそこにあった。私はアルゼンチンの出身だが、日本より前に宣教された南米では征服し、そこに福音が入れられた。そういった南米での不備をいろいろと調整し、全く違う形で福音宣教が始められたのが日本。(天正遣欧使節が高い文化水準を示し、キリスト教をよく理解して受容する民族であることを証明したことが)それまでの植民地経営をやめないとダメだということを伝えることになった」

 

ヨーロッパの強国の手が南米から日本へと伸びてくる過程で、宣教の方法が転換されたことは、日本固有の文化を残せた大きな要因。そこに天正遣欧使節の存在があったことは、日本人として覚えておきたいことですね。

 

基調講演で述べられていたことですが、コロンブスは相手と協定を結ぼうとせず、1533年にメキシコを征服。それはアステカを原始的だと考えていたからです。しかし1549年にザビエルによって宣教が始まった日本では、キリスト教が独自の発展を見せ、1582年に天正遣欧使節が派遣され、15万人の信徒、200の教会が建てられました。

 

天正遣欧使節をプロデュースした巡察使ヴァリニャーノも「日本を改宗させるのは重要(だが、中略)訓練された兵のいるこの貧しい地を侵略することは賛成しない」と、スペイン国王に書簡を送っており、これが功を奏したのか、黒い噂はあったものの、スペインは日本征服を企図しませんでした。

 

この一連の流れを俯瞰してみる時、歴史とは何と深いものだろうかと思います。それが現在とまた自分までつながっているから尚更に。キリシタン史の一つのハッピーな記憶のように思っていた天正遣欧使節が、こんなに意義が大きかったのだと認識させてもらいました。いつものことながら・・・感謝(´ω`人)

関連記事
スポンサーサイト



Comment

実に冷静 

よくもでたらめを! と思ってしまう政治家をとりこんで、シポジウムを開くなんて、と私なら途中で退室していたかもしれません。なのに冷静に分折し、こうしてまとめて下さるのですからありがたいです。ただ、宣教方針については、この時期に融和策に転じたかどうかは、別の評価もあるように思いますが如何。

いろんな意見が 

いろんな意見、説があると思います。その時代に限ってみても、修道会によって様々な方針を立てていましたし、同じ修道会でも人によって意見は違い、論争されていたこともありました。今回はそれに関して、パネリストが意見を表明する場だったのだったと思います。
  • posted by 由愛 
  • URL 
  • 2018.12/14 13:40分 
  • [Edit]

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

左サイドMenu

プロフィール

由愛(ゆめ)

Author:由愛(ゆめ)
キリシタンのあしあとを求めて旅するサイト『天上の青』の管理人をしています☆

twitter

最新記事

ブログカウンター

最新トラックバック