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若松英輔「内村鑑三~悲しみの使徒」

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若松英輔内村鑑三~悲しみの使徒」読みました。
この人の内村鑑三論はNHK100分で名著で「代表的日本人」を取り上げたときに見ていて、内村鑑三について語ってくれるのを待っていました。岩波新書で出るだけあるなという内容の濃さで、若松英輔の文字運びというか表現の妙にもほだされました。

著者の若松英輔はカトリックですが、プロテスタントである内村鑑三の信仰をどう語るんだろうと思って読み始めましたが、その心配は無用でした。内村自身、教派というよりは神に向かった人であり、その影響をほとんど受けなかった人でした。著者は、内村のそんな信仰的な姿を、教派や教理からの視点ではなく、専ら神と人という視点から読み解いていっているので、それらの違いは気にもならない程度で済んでいます。

さて細かい内容についてなのですが、内村が「信徒発見」で知られる長崎のキリシタンについて、そんなに尊敬心を持っていたということを初めて知りました。「城の古址」(長崎甚三衛門の居城跡)に登り、帽子を取って敬意を表したことを内村が記しています。この際、内村が「信徒発見」の舞台である大浦天主堂ではなく、浦上の地に行っていることに若松英輔は注目し、「彼に殉教者たちへのおもいがあったからだろう」としています。

なるほど。カトリックたる著者が読み解くからこそ、そんな観点も付与されるのかと、従来の内村鑑三論との違いを感じました。プロテスタントでありながらキリシタンに関心を抱く私にとっては、自分と内村との共通点を見つけた気がして、何かを「発見」した気持ちになりました。

不敬事件を経て、各種の誤解、誹謗中傷にさらされることとなった内村が、「願い」と「祈り」の根源的違いに気づくところは、著者が信仰的な踏み込みをして書いているところです。「願いは、みずからのおもいを神に届けようとすることであり、祈りは、神の『声』を聴くことであると内村は気が付く」としています。こういう解釈は信仰者でなければできないなと思いました。

内村が真摯に神に向かえば向かうほど、人との距離が開き、他者からの理解を得られないばかりか、身内からも去っていく者が出ることになったことが、晩年に相次ぎます。その理由を、著者は内村の心情に入り込んで解明していくのですが、これが難解で・・・。途中ページをくくりながら、無力感に苛まれました。

しかしまあ、著者がまとめてくれているので、私でも最低限(ギリギリ?)の理解はできました。「聖書を読むとは『直接神に教えられ』ることであると内村はいう。(中略)無教会とは、教会の彼方で、個々の人間が生ける神との交わりを持続的に経験しようとする試みだったといってよい」と。

それならアーメンです。「代表的日本人」を書き、無教会派というムーブメントを起こし、めっちゃ頭良くて、そのせいで誤解された人物で、晩年の再臨運動は何だったんだろう?という、私のざっくりとした内村鑑三理解が、改善されました。その隙間が埋まり、最低限かもしれないけれど、理解に達したということで。

でもこういう本読むのって、信仰の深度も必要ではないかと思いました。一般の人も多く読むんでしょうけど、どういうふうに思うんでしょうね。それも聞いてみたい気がしています。
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