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内田樹・釈徹宗「聖地巡礼リターンズ」

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内田樹と釈徹宗が日本各地の聖地を旅する「聖地巡礼リターンズ」読みました。
「聖地」と言っても、サブカルチャー的な「聖地」まで含んだ広い意味のもので、決してエルサレム巡礼の話ではありません。この「聖地巡礼」はシリーズ化されていて、今回の目的地は長崎・京都・大阪。キリシタンゆかりの地をめぐっていたので読んでみたのです。
旅人の一人、内田樹はユダヤ教や西洋思想に強い評論家で、もう一人の釈徹宗はお坊さん。キリシタンについては付け焼刃かなと思いきや、お二人とも詳しく、自分なりに考えていることも蓄積しておられました。
ただしキリスト教信仰を外側から見るというスタンスではあるため、殉教のことを「宗教的パッションは伝染する」し、殉教者たちは後で崇敬をうけることを思って「非常に気持ち良かったのではないか」などと言ったりしています。うむむーですが、外側からはそう見るものなんだなと。
長崎に関しては、「強烈な語り手が登場すると風景の解釈が固定化される」と内田氏は言い、そのため長崎は遠藤周作の呪縛から逃れられていないと解釈していました。内田氏はまた「長崎が日本で最もカトリック人口が多いそうですが、それは250年前に身内から殉教者を出したことを、おのれの実存に関わる出来事として受け止めた歴史的経験の影響だと思う。果たして自分は殉教できるかという切迫した問いを自分に向けざるをえなかった。そういう宗教的緊張感が長崎人の心性の深いところにしみ込んで、伝わっているのではないか」とも言ってました。
なるほどです。さすが評論家さんは鋭いなと思いました。しかしこれを、長崎に限らず、「日本人は」とするなら、日本全体のリバイバルにつながる要素だろうと考えられます。日本人が自分の先祖が殉教するまでしたキリスト教について、「果たして自分は」と問いかけながら、おのれの心性にしみ込むほど歴史的経験に目を向けることができるなら・・・、日本におけるキリスト教の捉えられ方が変化していくのではないかと思うのです。
笑ったのは、大阪の茨木市にあるキリシタン資料館を訪れた際に、クルス山が第二名神の工事で削られているのを見て、内田氏が「(キリシタンの)お墓をつぶして道路なんか通すと罰が当たるぞ」と発言していたこと。現代思想、比較思想の専門家がこんなこと言うんだと、意外でもあり、そうだそうだと共感したのもあり。今頃すっかり高速通ってしまってるんでしょうね。私が行った時も工事中でしたけど、無残でした。むむと思うことを言うんだとしても、一般的の人たちにもっとキリシタンの聖地や教会を訪れてもらうのが良いんだろうなと思いました。もともと歴史は日本人皆の財産ですもんね☆

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